西安金橋国際旅行社(中国金橋国際旅行社西安支社)

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西安秦始皇帝兵馬俑博物館/秦始皇帝陵/銅車馬観光ガイド 1

西安金橋国際旅行社の日本語ガイド
秦始皇帝兵馬俑博物館/秦始皇帝陵/銅車馬観光ガイド

二千二百年前の地下軍団  秦始皇帝陵兵馬俑    

死して更に生きた秦の軍陣    目次  

秦代軍団の芸術再現

一 、兵馬俑の発見と発掘

二、兵馬俑の種類と隊列

(一)兵馬俑の種類

1.戦車

2.騎兵

3.歩兵

(二)兵馬俑軍陣の編列 

三、秦の踊の芸術の風格と製作

四、兵馬俑坑から出土した兵器

五、兵馬俑と秦始皇帝陵(銅車馬)

六、中国一番大きい専題遺跡博物館秦の始皇帝兵馬俑博物館

七、秦の始皇帝は中国の歴史上の第一位の封建皇帝である

八、秦の始皇帝陵はどのように修建したのである

九、秦の始皇帝陵および周りの陪葬坑、陪葬墓

更に深くご了解したい場合は ご遠慮なくお尋ねてください 


秦代軍団の芸術再現

袁 仲一

秦始皇 ( 紀元前 259 年 ~前 210 年 ) は中国を統一した最初の封建皇帝である。彼の陵墓は、西安市臨潼区の東 6 キロメトールに位置する。 1974 年に最初の兵馬俑坑が発見されており以來、現在までもう三つの俑坑が確認されており、それぞれに 1 、 2 、 3 番号を編成した。三つの俑坑の中に実物の人、馬と等身大の陶俑や陶馬が合わせて約 8000 体がある。その中に戰車兵、騎兵や歩兵などの兵種があり、整然と隊列を組んで、あたかも巨大な地下始皇陵を守護する軍団のようにめられる。陶俑の形象はそれぞれ異なっていて、表情 、 態度が生き生きして、中国古代雕塑芸術史における一つの玉と言える。秦始皇の陵墓の兵馬俑が「世界第八大奇跡」や「二十世紀考古歴史上の偉大発現の一つ」 として世界の人々に好かれている。兵馬俑坑は秦始皇陵とともに国連教育科学文化機閧に世界文化遺産の名薄に登録されている。それは中国人民だけでなく、全人類の珍しい文化財である。この珍しい歴史文化遺産を効果的に保護するため、 1979 年に秦始皇兵馬俑博物館を設置した。

秦始皇(紀元前259年—前210年)

秦始皇陵

秦始皇兵馬俑博物館

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一、兵馬俑の発見と発掘

兵馬俑坑は秦始皇の陵墓の東 1 . 5 年キロメトールにある。そこはもともと見渡す限りの荒れ地であったが、一つの地下芸術宝庫とは誰も思わなかった。1974 年 3 月に地元の農民がここで井戸を掘った時、偶然にいくつかの陶俑の破片が目に入ったが、何物かは分からなかった。その後、考古学者が一年間余りに実地調査をしたり試掘したりした後、そのが大型な俑坑と確認し、すなわち 1 号兵馬俑坑と認めた。 1 号俑坑は、東西約 230 メトール、南北約 62 メトール、現地表からの深 4 . 5 ─ 6 . 5 メトール、総面積 1 万 4260 平方メトールの規模をもつ。試掘で出土した一部の陶俑、陶馬の排列密度によって、 1 号俑坑の中に陶俑、陶馬が約 6000 体と推定され、また大量の青銅兵器がある。

1号兵馬俑坑


1号兵馬俑坑の試掘

2号兵馬俑坑

1 号兵馬俑坑が発見された後、考古学者は引き続きその辺りの地域で実地調査を行なったが、 1976 年 4 月 23 日に 1 号俑坑の東側北より 20 メトールの所で、まだ 2 号兵馬俑坑が発見された。 2 号俑坑は、その表面が曲尺の形を呈して、東西約 124 メトール、南北約 98 メトール、現地表からの深さ約 5 メトール、総面積約 6000 平方メトールの規模をもつ。試掘の出土情況によって、陶俑、陶馬が約 1300 体余りがある。 2 号俑坑は 1 号俑坑よりその內容がもっと豐富で、跪き射り俑、立射り俑、騎兵俑が配置されているが、戰車が 80 余りあり、兵馬俑坑における粋と言える

1 号俑坑の西側北より 25 メトールの所で、ドリリング調査を通して 3 号兵馬俑坑を発見した。 3 号坑の規模がかなり小さくて、不規則的な形を呈している。その表面は「凹」という字の形で、東に坂のような通路があり、東西約 28 . 8 メトール、南北 24 . 57 メトール、現地表からの深さ約 5 . 2 ─ 5 . 4 メトール、総面積約 520 平方メトールの規模をもつ。坑內に陶俑、陶馬が 72 体ある。 3 号俑坑が小さが、非常に重要である。それは 1 号、 2 号兵馬俑坑を統帥する指揮部で、古代で軍幕と称した。

2 号兵馬俑坑の陶俑の出土情況

1976 年夏、 1 号俑坑の中部北側 2 号、 3 号俑坑の間で、まだ完成されていなかった 4 号坑が発見された。この坑は長方形を呈していて、東西 48 メトール、南北 75 メトール、現地表からの深さは 4 . 8 メトール、総面積 3600 平方メトール規模をもつ。坑內にはいずれの遺物も見つからなかった。というのは、秦王朝の末期 ( 紀元前 209 年 ) の農民蜂起が起こった、蜂起軍は兵馬俑坑の近くまで戰って、 4 号俑坑の工事が中止においこまれたからであった。 4 号俑坑がまだ完成されていなかったため、兵馬俑坑の数と言う時、それを入れていなかった。

3 号兵馬俑坑

1 号、 2 号、 3 号兵馬俑坑に完成されていなかった 4 号俑坑はたもそも同じグループに属した。古代の軍隊編成 によって、 1 号坑は右軍、 2 号坑は左軍、完成されていなかった 4 号坑はもともと提案された中軍、 3 号坑は指揮部で、こうして完備した軍隊編成の体系をつくった。秦始皇生前に都を守衛した軍隊を象徴し、古代で宿衛軍と称した。

兵馬俑坑の建築構造は次の通りである。それは地下坑道式の大型土木建築で、すなわち地面で深さ約 5 メトールの大きな坑を掘って、坑の中で平行的な大隔牆が置が並んで建てられたものである。隔牆の両側に木の立柱が並んで、柱の上に橫木が置かれれいる。橫木と土隔牆の上にアンペラが密集的に建てられ、その上に葦のむしろをかぶって、また黃土を覆って、坑のてっぺんとなった。坑のてっぺんは当時の地表上より約 2 メトールの高さで、遠くから見て頂上の平らかな丘のように感じられる。坑の底部に煉瓦で地面を敷かれた。陶俑、陶馬を坑內に入れてから通路を密閉して、閉鎖的な地下兵馬俑坑が形成された。

秦始皇陵の兵馬俑坑に関することが、文献に記載されなかった。二千年余り以來、兵馬俑の遺物を見た人が絶えず出てきた。兵馬俑坑の辺りに六つの東漢墓 (25 年— 220 年 ) 、二十余りの近 , 現代墓、三つの井戸、また「擾乱坑」を発見した。その時、いずれかの所で兵馬俑の遺物が出土された。しかし、彼らはそれが珍しい文物と知らなかったので、逆に不祥な怪物と誤解して、注意しなかった。 1974 年に農民が井戸を掘って、兵馬俑を発見した後、考古学者はいろいろ活動を行った上、兵馬俑についての神秘感がなくなり、世界にその奇妙な風采を現われるようになった。

1974 年以來の 25 年間に、兵馬俑坑の発掘活動が行ない続けられている。今日までに、 1 号兵馬俑坑は三分の一が発掘され、 3 号兵馬俑坑はすでに発掘されたが、 2 号兵馬俑坑の発掘活動は今なお行なわれている。現在、陶俑、陶馬 2000 体余り、各種の青銅兵器 40000 余りを出土した。 1979 年 10 月ここで兵馬俑遺跡博物館が建てられて、掘りながら開放という方法で公開展示していた。ここを参觀にきた人々が出士兵馬俑の風采を楽しめるばかりでなく、考古発掘現場で遺跡、遺物の出工に関する新しい情報や考古発掘の関係知識を得ることもできる。

二、 兵馬俑の種類と隊列

( 一 ) 兵馬俑の種類

秦は戰車千両、騎兵萬人、歩兵百萬余りを持つ有名な軍事強国である。始皇帝がまさにこの強い軍事力をもって、その他の諸侯国を消滅し、中国を統一した大業を完成できた。兵馬俑は秦軍隊の生き写しとして、戰車、騎兵と歩兵の三種類に分けられる。

1 .戰車

1 号、 2 号、 3 号兵馬俑坑に合わせて戰車が 130 両余りある。戰車は全部木で造ったため、出土された時に朽ちてしまった状態で、痕跡しか殘っていない。その形は、二つの車輪に 1 本の轅 ( ながえ ) 、四頭陶馬をつなぐものである。車体は長方形を呈して、幅 1 . 4 メトール、前後の長さ 1 . 2 メトールである。その 周辺には、高さ 40cm 、窓格子の上ような柵が囲まれて、後ろに出入り の門扉が一つ、車輪が 1 . 35 メトールの高さである。戰車は全体が漆塗りされているが、あるものに絵や模樣が見えている。実用な戰車と同じように車馬具が備わっている。

1 号兵馬俑坑の陶俑、陶馬の隊列

兵馬俑坑の戰車の種類は、指揮車と一般戰車の 2 種となる。指揮車は華やかに飾られ、全体が漆塗りされながら図案や模樣が描かれている。その上部に円傘蓋 が備えられ、また鐘や鼓が掛けられている。戰車に将軍俑、御者、右の兵士という 3 体陶俑がある。三人の職責がそれぞれ異なっている。将軍を鐘や鼓をもって軍隊の進退を指揮する。いわば「鼓によって進み、鼓を激しく鳴らせば戰うことに対して、どらによって止め、どらを激しく鳴らせば退く」 ( 『尉繚子』 ) がこうなってきた。御者は車馬を段取りよく、又は安全に走らせることができるよう御していっる。右の兵士は将軍の安全を保證するほか、險しい道や泥だらけの道路に出會った時、戰車を推すという職責を負う。しかがって体が強健な人を右の兵士に選んだのである 一般の戰車は、すなわち兵士が乘る車である。いずれかの車に御者、左の兵士と右の兵士という 3 体陶俑がある。三人は車の上に橫列配置されて、御者は車の中央に立ち、左の兵士と右兵士はそれぞれ左右に立っている。古代の戰車はいずれも立ち乘りという形で、御者は車で車馬を制御し、左の兵士と右の兵士は、手には弓弩及び戈 ( ほこの一種 ) 、矛などの兵器を持ち、敵と戰う。遠くの敵には矢を射て、接近戰になれば戈、矛を使用したのであろう。戰車の 3 体俑はいずれも鎧甲をかけて御者俑の両手を伸ばして手綱をしっかりつかんでいる。左の兵士俑と右の兵士俑は一つの手に兵器を持ち、もう一つの手で車を押しているように生い生きとしている

1 号兵馬俑坑の戰車の痕跡

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2 .騎兵

2 号兵馬俑坑に約 116 体の騎兵俑が出土されてきた。本物の馬と等身大の陶馬は身長 2 メトール、高 1 . 72 メトールである。陶馬の背中に鞍が雕刻されて、頭におもがいやくつわや手綱がかけられている。いずれかの馬の前に 1 体の騎士俑があり、一つの手で手綱を引き、もう一つの手に弓弩を持っいる。俑と馬はどれもリアルに造られた。 4 頭がグループを一列から配置され、一つ一つの列から長方形の縱隊を形成する。この壯大な秦国の騎兵を如実に語っている . 秦国の騎兵は紀元前七世紀に出現し始めたが、秦王朝に至ってすでに獨立で強大な兵種となった。騎兵は軽快の性格を持ち、潰れてしまった敵の襲撃、狙撃、追撃を多用した。

騎兵 

3.歩兵

兵馬俑坑の歩兵俑は数多く、約 7000 体がある。地位によって軍吏俑と一般兵士俑という 2 種類がある。軍吏俑のうち、高級軍吏俑 ( 一般的に将軍俑と言う ) や中級軍吏俑と下級軍吏俑というふうに区別される。一般兵士俑のうち、軽裝歩兵と重裝歩兵に分けられている。上述の各種の俑について、主としてその衣服、甲胄と冠で区別される。高級軍吏俑は二重の胴著を著け、彩色の魚鱗甲をかけ、冠をかぶっていた。その中に、両手に剣を持ちながら胸の前に垂れているものがあれば、両手を自然に垂れているものもある。彼らは頭を上げ、胸を張りながらかなりの風格で、見るだけに軍隊を統領する高級軍吏が分かるだろう。

将軍踊

中級軍吏踊

武士踊

中級軍吏俑は頭に「双板長冠」をかぶり、鎧甲をかけている。鎧甲の形として、上半身の前だけ守る彩色の緑どりがついた前胸甲と甲片がかなり大きく彩色緑どりがついた辺甲という 2 種類がある。手に剣を持ちながら威嚴に立っている。そのうち、将軍俑のそばに立ち、将軍の助役みたいなものがあれば、兵士俑の隊列中に立ち、堂々としてさっそうたる英姿をしているものもある。下級軍吏俑はみんな「単板長冠」をかぶっていたが、鎧甲をかけていないで軽裝であるものがあれば、鎧甲をかけているが、甲胄に彩な模樣がないものがある。一つの手に剣を持つながら、もう一つの手に矛、戈などの兵器を持っている。兵士俑の中の軽裝歩兵俑は、 1 体も鎧甲をかけなく、帽子をかぶっていなが、足に脛当をつけて、手に弓弩を持っいる。軽裝歩兵俑はほとんど軍隊の先方に位置づけられる。先方の兵士が走りに強く、行動が速いし、また智慧と勇敢の素質を備えなければならないだらである。兵士俑の中の重裝歩兵俑はいずれも鎧をかける。こういう点で鎧甲俑ともいう。 l 、 2 、 3 号兵馬俑坑の中で鎧俑の数が一番多く、歩兵俑の 80% を占めている。鎧俑の中には色々な種類がある。姿で言えば、跪き射 り俑、立射り俑及び両足を八の字形にして立っている鎧俑がある。裝束で言えば頭の上に髪を丸く束ねたのもあるし、頭の後に髪を六つ分けて扁平に束ねたのものある。また、円錐体の小さい帽子 ( 昔は「介帻」と呼ばれる ) をかぶっている鎧俑もある。弓弩をもっているのもあるし、戈、矛、戟、、殳など異なった兵器を持っているのもある。これは彼らが隊列の中での位置や職位の違いからている。

立ち射り踊

跪き射り踊

武士踊 目次へ homeへ 

中国では初期の歩兵は獨立の編制がなくて、隷属歩兵であった。商、周、春秋の時代には作戰の主な形式は車戰であった。その時、歩兵は戰車に隷属していて、各車は歩兵を 10 人備えていた。これらの歩兵は戰車に応じて作戰した。戰国時代 (BC5 — BC3 世紀 ) に入ってから隷属歩兵のほかに獨立した歩兵も現われて、車兵、騎兵、歩兵という三つの獨立した兵種を形成した。兵馬俑坑にはこの三つの兵種が備えられていて、歩兵の中にも獨立歩兵と隷属歩兵との違があり、古代軍隊の編制を真実に反映している。

( 二 ) 兵馬俑軍陣の編列

古代、軍隊は作戰の時、一定の隊形にしている。

これは「軍陣」という。 1 号坑の中には陶俑、陶馬が 6000 体ぐらいあった、長方形の大型の軍陣となっている。編列の方法として、前端には軽裝歩兵俑の橫列が三つあって、各列には俑が 68 体あって、全部で 204 ある。これは軍隊の先鋒である。先鋒の後には軍隊の主体で、戰車と歩兵の縱隊は 38 あった、かわるがわるになっている。軍陣の左と右の両側には外向きの歩兵俑の列が一つあって、これは軍陣の二つの翼で、両側からの襲撃を防くためである。軍陣の最後には歩兵俑の橫隊が三つあって、軍陣の後の警備隊として敵の襲撃を防いでいる。ここからその組織の嚴密さがうかがわれる。

1 号兵馬俑坑の軍陣

2 号兵馬俑坑には軍陣は曲尺の形で、四つの小型の軍陣からなっいる。一番目の小軍陣は前端なあって、跪き射り俑、立射り歩兵俑からなった方形の軍陣である。跪き射り俑は軍陣の真中にあって、立射俑はその四周にある。二番目の小軍陣は右側にあって、 64 両の戰車からなった方形の軍陣である。三番目の小軍陣は曲尺形の軍陣の真中にあって、戰車、歩兵、騎兵からなった長方形の軍陣である。四番目の小型軍陣は曲尺形の軍陣の左側にあった、 108 の騎兵からなった長方形の軍陣である。以上の四つの小軍陣は多兵種を混合的に編成していて有機的に一つの大型の軍陣をなしている。各小軍陣は分けて自分で作戰もできるし、合わせたら、多兵種作戰の威力を発揮する。

2 号兵馬俑坑の局部

2 号兵馬俑坑跪き射り俑の出土情况

3 号兵馬俑坑には指揮車が一つあって、歩兵俑が 64 ある。歩兵俑は皆警備用の銅製の殳を持って、互いに面して、道路をはさんでいだ。警備がきわめて嚴重である。 3 号坑から出土したものには古い祭りのための鹿の骨、動物の腐った骨があった。古代作戰の前に、祖先や神樣に祈りをささげて、自分が勝つように願う。 3 号坑は、 1 、 2 号兵馬俑の軍陣を統帥する指揮部である。 ?1 、 2 、 3 号兵馬俑坑の中の 8000 ぐらいあった兵馬俑の編列の情況は古代の軍陣を如実に表わしている。その規模は巨大で、計り知れない勢いを持って、秦の軍隊の雄大さを生き生きと反映している。

3 号兵馬俑坑の局部

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