【遣唐使物語1】長安の宴しのぶ緑の杯…阿倍仲麻呂
水辺を囲む柳の間に、まばゆい月が浮かぶ。
中国 陝西せんせい 省西安の 曲江池きょくこうち 遺跡公園。唐の首都・長安と呼ばれた時代、皇帝の離宮があった場所で、春に宴会が催された。皇帝らが臨席する中、 贅ぜい を尽くした酒食が並び、華やかな歌舞が繰り広げられた。
宴の主役は、官吏登用試験「 科挙かきょ 」のうち、最難関だった進士科の合格者。儒教の知識だけでなく、詩才も求められ、「50歳の合格でも若い」とされた。唐に渡って10年足らずだった 阿倍仲麻呂あべのなかまろ は20歳代で合格した。宴会に出て高揚感を味わったに違いない。
緑瑠璃十二曲長坏
「きっと曲江池の宴でも使われただろう」。陝西歴史博物館で文化財管理を担当する賀達●さん(46)は、横幅の広い白玉製の酒器を指し示した。葉を扇状に広げた文様があしらわれた逸品は、西安で1970年に出土した豪華な宝飾品などの一つだ。
その形は、正倉院宝物で表面に草花の文様などが刻まれた濃緑のガラス器「 緑瑠璃十二曲長坏みどりるりのじゅうにきょくちょうはい 」にも似ている。長坏の材質は当時の中国製特有の鉛ガラス。賀さんは「イラン高原を中心に栄えたササン朝ペルシャから伝わり、唐でも作られて流行した」と解説する。
唐の時代、ユーラシア大陸の往来が盛んとなり、長安には人口100万人のうち、西域人ら外国の住民が数万人を占めたという。彼らがもたらしたこの形状の器は、上流階層に人気があったワインを飲むのに用いられた。酒を好み、仲麻呂と交流があった李白も、漢詩に器やワインのことを詠み込む。
仲麻呂はその才華を愛されたゆえか、長く帰国が許されなかった。753年に帰国が決まると、玄宗皇帝や王維ら名だたる面々が惜別の漢詩を贈ったほどだ。
仲麻呂の帰路をたどって南下し、 江蘇省張家こうそちょうか 港で長江のほとりに立った。下流に船を進めれば、東シナ海が広がり、その先にあるのは日本だ。
仲麻呂が、ここで開かれた送別の宴で詠んだとみられる和歌が古今和歌集に伝わる。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出い でし月かも(空に月が出ている。奈良・春日の三笠山にかかる月と同じものなのだろう)
郷愁の念を抱き、交わした別れの杯は、特別なものだったに違いない。
だが、不運に見舞われる。仲麻呂が乗った船だけが暴風に巻き込まれてしまう。
結局、仲麻呂は唐にとどまり、帰国を果たせなかったが、ほかの遣唐使らが多くの文物をもたらした。国内では、近世まで作ることができなかったとされるガラス器の長坏もその一つだ。
波濤はとう を越えた長坏は、今も色あせず深い緑をたたえ、国の発展を願った遣唐使の歴史を伝えている。
■阿倍仲麻呂(698~770年)=701年に生まれた説もある。10歳代後半で遣唐使に従い、留学生として唐に渡った。唐では中国風に「晁衡(朝衡)」を名乗った。玄宗皇帝に厚遇され、官職を歴任して出世を続けた。後から来た遣唐使の帰国を手助けしたとの記録もある。
奈良時代、遣唐使がもたらした大陸の文化は、日本の発展に貢献した。出展宝物と遣唐使の縁をひもとく。
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