中華民族の始祖、黄帝の陵墓 陝西省黄陵県
中国の黄土高原西部、陝西省延安市黄陵県にある橋山は、伝説の皇帝「黄帝」の陵墓とされる。漢代の歴史書「史記」にも「黄帝崩、葬橋山(黄帝崩じ、橋山に葬る)」の記載がある。黄帝は名を軒轅(けんえん)といい、中国で民族の礎を築いた文明の先駆者とされ、歴代王朝でも敬慕されてきた。黄帝陵も中華民族の祖陵と見なされている。
黄帝陵の傍らには軒轅廟があり、創建は前漢の始めとされる。黄帝陵管理局ガイドセンターの郭嬋(かく・せん)副主任は「漢が建国されると、高祖劉邦(りゅう・ほう)が皇帝陵の傍らには廟宇を建てると規定したため、黄帝陵にも軒轅廟が建てられた」と説明した。
軒轅廟の入り口には「黄帝手植柏」と呼ばれるコノデカシワの古木がある。樹高19・4メートルで幹回りは11メートルを超す。樹齢は5千年余りで「中華第一柏」の誉れ高く、黄帝の手植えと伝わる。
中華民族の始祖、黄帝の陵墓を訪ねて 陝西省黄陵県
軒轅廟の「人文始祖」大殿はかつて黄帝を祭った正殿で、中央に黄帝の全身浮き彫りレリーフが安置されている。山東省の武梁寺に残る後漢時代の画像石を基にしており、墨玉(黒い軟玉)に彫刻されている。高さ3・9メートル、重さ11トンで、黄帝は質素な衣服、真剣な面持ちで東に向かって歩き、左手で前方を指し、顔は西を振り返る姿勢をとっている。
黄帝は古代中国の部族連合の指導者であり、治世中に衣服や船、車を作り、養蚕を教え、数々の穀物や草木の種をまいたとされる。徳によって人々を感化して諸侯を従え、賢者を登用し、岐伯(ぎはく、古代の名医)にはあらゆる薬草を試すように命じて、医者として人々の病気を治療させ、倉頡(そうけつ)には鳥の足跡から文字を作らせた。臣民とともに中国5千年の文明史を開いた。
橋山に登ると黄帝陵園がある。陵前の祭亭は明清時代の建築で、中央には現代中国の文学者・歴史家・政治家の郭沫若(かく・まつじゃく)が揮毫した「黄帝陵」碑がある。祭亭の後ろが黄帝の陵墓で、高さは3・6メートル、周囲は48メートル。青れんがで囲いをした環丘墓で、正面の石碑には黄帝が竜に乗って天に昇った伝説に由来する「橋山竜馭」の四文字が記されている。
黄帝陵園には漢代の「漢武仙台」遺跡も残る。高さ13・5メートル、上部の周囲22・5メートル、下部の周囲120メートルで、今も古風で雄渾な風貌を残す。前漢の元封元(紀元前110)年に武帝が北方を行幸した際、18万の兵士が長衣に土をくるんで運び、昼夜を徹して築いたという。
漢の武帝以降、中国では黄帝の祭祀(さいし)活動が盛んになった。唐の太宗(李世民)は長安南郊で毎年黄帝を祭り、宋元時代になると黄帝陵廟での祭祀がますます重んじられた。明の皇帝が専門の役人を派遣して黄帝を祭った回数は14回に上り、清代では規模も大きくなり、記録に残るだけでも30回の祭祀が行われた。
現在では、軒轅黄帝公祭典礼が毎年の清明節(旧暦春分から15日目)に行われている。2006年には第1次国家無形文化遺産リストに登録された。
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