長安、子午谷道、孟達墓、漢中、褒斜桟道、陳倉道、陳倉、五丈原など、長安 ぐるっと三国志遺跡を一廻り2泊3日
お客様の声|西安金橋国際旅行会社(陝西友聯国際旅行社)
更新:2024年3月15日
長安、子午谷道、孟達墓、漢中、褒斜桟道、陳倉道、陳倉、五丈原など、長安 ぐるっと三国志遺跡を一廻り2泊3日
「蜀道の難き」の歴史にピリオドを打った終南山トンネルで秦嶺山脈を越えて、三国志にまつわる歴史的遺産や「西北の小江南」とも称されるほど美しい景色が広がる陝南及び漢中へ。このルートは歴史好きにも自然が好きな人にもぴったりの観光地が多いです。
1⃣日程:
1日目、
朝07:00日本語ガイドが西安市内のお泊りホテルロビーにてお迎え致します。
お迎え後、日本語ガイド付きご専用車で、中国を東西に横断して黄河と揚子江を中流域で分け、二千年前の秦の国にあることで秦嶺と称する秦嶺山脈北麓へ(約1時間)、
紀元228年、魏延が何度も通常の進軍ルートを避け「子午谷」という小道をひそかに通って曹魏の副首都である「長安」をダイレクトに襲撃して橋頭堡を築くと諸葛亮に助言しましたが、子午谷で伏兵でやられれば全滅だと諸葛亮に却下された長安を奪うに最も近い道である子午谷の子口(北出口)に寄ります。
*紀元前206年、鴻門の会の後、劉邦が項羽に関中から漢中へ追い出された際に、子午道を通じて漢中に至り、この桟道が焼いていきました。
*唐の玄宗皇帝が楊貴妃の好きな荔枝=ライチを取り寄せるために使われたので、この道も「荔枝道」という名も付けられました。
その後、三国志に渭水の戦いで現れ、外見は鶴の如く、姿は松のよう、並々の者とも見えぬ人品とされ、曹操が賓客に対する態度で出迎えた婁子伯は、馬超に対抗するために氷の城を作るよう示唆した。曹操は喜んで贈り物をしようとしたが、婁子伯はそれを一切受け取らずに去って隠棲していた終南山を通り、
劉璋、劉備、曹家三代と主をかえ、最後は蜀に戻ろうとして謀反を起こし、司馬懿に討たれた(誅殺された)孟達の墓があり旬陽へ(2時間強),
孟達墓
孟達墓から見おろす漢江と旬陽の街の眺めは最高。
*伝説によると、 劉璋亡きあとも旬陽に埋葬されたそうです。
お昼食は旬陽名物をお楽しみ下さい。
石鍋魚
昼食後、張飛が鼓を打ち鳴らして曹操の大軍を撤退させた漢陰に寄り、
長安を奪うに最も近い道である子午谷の午口(南入口)である石泉に寄ります
伝説により、関羽に援軍を送らず見殺しにした劉封(劉備の養子)が、張飛に鼓に誘い込まれ、山頂から谷下に突き落とした滚鼓坂という名の遺跡も石泉県にあるそうです。
その後、劉備が即位し蜀(蜀漢)を建国すると、張飛は車騎将軍兼司隷校尉に任命され、西郷侯に昇進した西郷に寄って、漢中へ
漢中泊
2日目、
朝08:00日本語ガイドが漢中市内のお泊りホテルロビーにてお迎え致します。
お迎え後、日本語ガイド付きご専用車で、漢中と勉県の三国志遺跡を巡ります:
漢中古漢台博物館
1958年から劉邦が漢の高祖となった古漢台跡を博物館にしていて、石刻の石門十三品陳列館、褒斜桟道史陳列館、出土文物陳列館などがあり、発掘された文化財、石刻、書画などを1000点あまり保存しています。特に、戦国時代に掘られ、世界最古の人工トンネルとされる中国の「石門」とその周辺の崖に刻まれた文字を写し取った「石門十三品」や蜀の桟道に書かれた曹操の直筆の「褒雪」の文字の石刻は、文学、歴史、書法の研究において価値を持っているため書道家から高く評価されています。
虎頭橋
魏延が馬岱に斬られたと伝わる場所である。橋はすでに壊れていますが、石碑が建てられ「古虎頭橋」と刻まれています。
張魯女張琪瑛墓
木牛流馬製造処
当時この場所で、孔明が輸送器具である木牛流馬を製造したとされる。
劉備称漢中王設壇処
劉備が漢中王を名乗った由緒正しき場所です。219年(建安24)曹操から漢中を奪取した劉備は、ここに壇を築き儀式を行って、漢中王の位に就いた。
諸葛孔明記念像
勉県の広い三国文化広場の中心に立っております。
お昼食は勉県名物をお楽しみ下さい。
熱米皮と菜豆腐
馬超墓
勉県武侯祠
三国志諸葛亮伝によると263年、即ち孔明病没の2年後に、劉禅の命により建てられた最も古い武侯祠。孔明塑像を拝んでいる。「天下第一の武侯祠」と呼ばれ、諸葛亮を記念する唯一の官祠である。
陽平関
陽平関に逃げ込んだ曹操軍を劉備軍は四方八方から攻めかけた。馬超と魏延が曹操を追い詰める。そして、魏延の射た矢で曹操は鼻の下を負傷する。陽平関に兵を退いた曹操は、漢中からの撤退を決意した。
漢中を手中に収め蜀の地を占領した劉備、漢中王と称した。
諸葛亮読書台
諸葛亮は漢中で8年屯兵を行い、軍務の合間にここへ来て読書に耽ったと伝えられる。
張魯城
張魯は当時、この 白馬城(今に復元されている陽平関の城壁一帯)と、西側にある山頂(蓮水村走馬嶺)に城塞を築いており、この両者の連携(曹操侵入時、これらを連絡する5 kmの防塁を新築)で、漢中盆地を守備していたようである。
この蓮水村走馬嶺の山頂にあった「張魯城」は、政教一致を説いた五斗米教の24役所の一つ 陽平県(もしくは浕口県)が開設されていた場所であり、これが要塞化されて、東側の白馬城との連携から、陽平関と総称されていたようである。なお、張魯城が築城されていた蓮水村走馬嶺であるが、 標高 1,036 mの山で、古くから古道が開通しており、軍馬が度々往来したことに由来するという。付近には城塞の他に、狼煙台(通称:煙洞峁)も設置されていた。
初戦で敗退を喫した曹操軍はいったん退却するように見せかけ、陽平関の守備隊を油断させて、後日、強襲し占領に成功する。陽平関守将の張衛らは南鄭城へ逃げかえり、そのまま張魯らは巴中の山岳地帯へ逃走し、曹操は難なく漢中盆地を平定してしまうのであった。
後に続く漢中争奪戦における劉備も、218年、今度は曹操軍が守備する陽平関の要害さにてこずることとなる。長期に及ぶにらみ合いが続いたようである(上地図)。
このときも、張魯城と白馬城、そして長い土塁が活用されたようで、劉備軍は漢江の河を渡って南から夜襲をかけたりするも、結局、張郃らが守備する陽平関を破ることができず、翌 219年に 定軍山 方面へ転戦し、走馬谷に陣取る夏候淵の本陣を襲うこととなったのである。
勉県武侯祠墓
諸葛亮は五丈原で没した後、遺言により、漢中の定軍山に埋葬されるそうです。
定軍山
劉備軍の老将黄忠が夏侯淵を破った定軍山の戦いで有名です。
漢中泊
3日目、
朝08:00日本語ガイドが漢中市内のお泊りホテルロビーにてお迎え致します。
お迎え後、ガイド付きご専用車で三国志遺跡を巡りながら宝鶏経由して西安へ:
褒斜桟道
漢中盆地と長安を結ぶ主要な四本の交通路の一つである。
陳倉古道
大散関を抜けて陳倉へ出る道
大散関(下車)
時間の許す限り、諸葛孔明の第二次北伐戦は漢中から北上した場所にある陳倉城や死せる孔明 生ける仲達を走らした五丈原に寄って西安へ。
西安泊
上記三国志遺跡をご参考して、ご希望日程にあわせて、別途お見積もらせて頂きます。
催行会社
手配旅行社:陝西友聯国際旅行会社西安本社
中国国家旅遊局授権国際旅行業務資格登録番号:L-SNX-CJ00013
外聯部日本語担当者:倪(ゲイ)
固定電話:029‐85657531、029‐83710118
携帯電話:+86(中国の国番号) 13772192936(24時間日本語対応)
住所:〒710068西安市雁塔区永松路12号吉祥雅居1号楼1単元4階友聯国旅(外聯部)
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