重陽宮 活死人の墓
重陽宮 戸県西のところにあり、交通の便がいい。道教全真派教祖王重陽の修練、埋骨の地である、わが国道教の三大発祥地の一つである重陽宮は「全真派聖地」と称されている。乗車路線:西安バスセンター(水司)から西安ー戸県方面のバスに乗り、戸県で乗り換え、車をチャーターして近くの他のお寺なども行ける、チャーター車はxiaojunn@gmail.comまでご連絡下さい。
入場料:元
大定元年(1161年)には、南時村に「活死人」の墓と名付けた深さ4mもの穴を掘り、そこで修行を続けること二年半に及んだ。そしてついに本来の真性を得て道を悟り、金丹が成った[1]。この場所には、彼の没後、元・憲宗二年(1252年)に、重陽成道宮という道観が建立されている。大定三年(1163年)には、活死人の墓を埋めた王重陽は、劉蒋村近郊に粗末な庵を結び、修行と教化を開始したが、重陽を知る郷人は相変わらず「害風」扱いをして受け入れることはなかった。 そして、常に大きなふくべを背負い、歌を口ずさみながら、またその歌中に「塵外の句」を交えて、諸処を経巡り、道士や僧と誰彼なく教えを交わせること、三年半に及んだ。
大定七年(1167年)4月26日、王重陽は突如として自分で劉蒋村の庵を焼いた。のちの弟子たちはこの庵を全真教発祥の場所と考え「祖庭」と呼ぶ。翌日、重陽は不退転の決意でひとり山東地方を目指して旅立った。ここで初めて、諱を嘉と改め、字を智明、道号を重陽子とした。その年の秋には、山東地方に現れる。閏7月18日、馬丹陽に出会い、入門させる。この時、馬丹陽が提供した庵の名が「全真」であった所から、全真教の名が起こったという。馬丹陽を弟子としたことが契機となり、入門を願う人々が「雲集」したが、のちに高弟となる丘長春(1148年 - 1227年)、譚長真、郝広寧、王玉陽の四人しか弟子を取らなかったという。
大定八年(1168年)2月、王重陽は弟子を連れて寧海州の煙霞洞にこもり厳しく弟子を教導した。6か月に亘る修行ののち、8月に文登県で活動を始めて「三教七宝会」という一般に向けた組織をつくることに成功した。教えの評判の高さにより翌年の大定八年(1169年)には牟平県で「三教金蓮会」を組織し、その前後に馬丹陽の妻の孫不二が弟子となった。その後「三教三光会・三教玉華会・三教平等会」をつくり、三教七宝会からわずか14か月で山東地方に五つの会を組織して一般に受け入れられた。この頃に掖県で劉長生が弟子に加わり、馬丹陽以下の七人の高弟が揃い、のちに「七真人(全真七子)」と呼ばれた。
大定九年(1169年)10月、王重陽は、故郷の陝西への帰路にたち、帰途の汴京(開封)で高弟に最後の厳しい教導をしたのち、大定十年(1170年)正月4日、五十九歳で没した。晩年の三年の短い期間に全真教の将来の路線は定められた。
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