漢中
隠れている中国密境三国志故地漢中、漢中地理:漢中は、孤立した盆地になっていて、陜西省の南西部に位置し、甘粛省と四川省に隣接している。北は秦嶺山脈で西安など渭水盆地(関中平原)と、南は大巴山脈で重慶など四川盆地(巴蜀)と隔てられている。長江支流の漢水が東西に流れていて、東に下ると長江流域へ出、西へ上ると甘粛省の天水付近へ出る。中部は漢水やその支流の褒水・胥水などが流れる肥沃な盆地であり、漢水の中程にあるので「漢中」と名付けられたと伝えられている。経済的には豊かな土地ではないものの、北は関中、南は巴蜀、東は漢水を下って長江流域に出られることから交通の要所であり、関中や巴蜀を支配する勢力にとっては漢中を押える事は軍事的に重要であった。漢中資源 :漢中は気候が穏やかで、万物の精華を集め、古くから「西北の小江南」と美称されている、地上にも地下にも豊かな資源がある。薬用植物は1300種類あり「天然薬庫」と称される。特に、天麻、西洋参などは有名である。また、杜仲は全国第2の産地である。その他、野生動物は360種類おり、その内、42種類の希少動物がいる。特に、ジャイアントパンダやトキ、金絲猴は「稀世の宝」と世界中に知られている。陝西省漢中市は中国のちょうど中央に位置し、西安市との間に連なる秦嶺山脈はパンダの生息地として有名ですし、漢中市に属する洋県は朱鷺の生息地としても知られています。現在新潟県佐渡で飼育されている朱鷺も、洋県の朱鷺センターから贈られました。漢中の歴史 :秦が滅んだ後は、前漢次代の高祖――劉邦は項羽に関中から漢中へ追い出されて、この漢中の中で韓信を見出し、漢中を基盤として桟道を築き、食料を蓄え、次々に中原(現在の西安)を手中に収め、最後は前漢王朝を築き中国を統一した。そして、国の名を「漢」と付けた、現在の漢民族や漢字などの名称もこれにちなんでいる。三国時代には張魯が南鄭を漢寧と改名して独自の王国を築き上げ、益州の牧であった劉焉と対立していた。後に張魯は、魏の曹操に降伏する。曹操は南鄭の呼称に戻して夏侯淵を駐屯させるが、蜀の黄忠率いる劉備軍に大敗し、劉備の所有する領土となる。漢中を支配した劉備は漢中王に即位し、後漢が滅ぶと漢の皇帝として即位した。劉備の死後は、三国時代の有名な人物丞相諸葛亮が 漢中に駐屯し、北伐の拠点として、宿敵・魏を撃つべく北へ進軍をするのも、漢中から桟道を伝ってのことである。最後は漢中の定軍山に埋葬された。玄宗皇帝が安禄山の乱を避け四川へ下る時に通るのもこの桟道である。そのなどで、漢中市は、はるか悠久の歴史を持ち、国家レベルの歴史文化名城(都市)と称されている。漢中市の魅力 :長い歴史に裏付けられた遺跡の数々です。三国志で活躍する軍師(参謀)諸葛孔明の墓地や、実際に見て奇跡のような道である桟道(山の中を流れてる褒河に沿って断崖に穴を穿つ、その穿つた穴に柱を差し込む、その差し込んだ柱の上に板を敷く。何ともうまく考えられた桟道である。宝鶏から漢中に至る間の桟道の長さは235キロという。)、書道のお手本である書法原本石門13品、素朴な地元人、皇帝も食した美味しい漢中料理(キクラゲ、キノコなどの料理が多く)など、ほかの喧噪の著名観光地よりも、落ち着くようなリゾート地である。中国大陸は北に黄河があり、南に長江がある。これが二大水系。秦嶺山脈はこの二大水系の分水嶺である。山の北の河は黄河に注ぎ、南の河は長江に注ぐ。 西安から漢中への旅はこの二大水系をひとまたぎするスケールの大きな旅である。そのスケールの大きさの中に、桟道があり、桟道をめぐる歴史がある。心に染みる旅であった 。漢中市の人口面積:漢中市の人口は376万人、面積は2.7万平方キロメートルもあります。面積は四国より広く、ほとんど山間地です。漢中への道(交通、アクセス):古来、関中(陝西西安)と漢中、四川を結んできた唯一の道が桟道である、馬と荷車が山道を越えることはできない、途中、谷底に落ちた者の数も知れない。建国(中華人民共和国)後、西安から宝鶏まで車で2時間、宝鶏から夜行列車で7時間半、秦嶺山脈の険阻を避け、ぐるりと大回りしなければならないそうである。2007年10月には秦嶺山脈を貫通して高速道路が完成し、西安から漢中へチャーター車で日帰りも可能になりました(片道3時間で西安・漢中間を結びました)。または夜行列車(21:05時~翌日08:41時、片道乗車時間:11時36分間)、高速道路利用の超距離バス(片道、車に乗る時間:8時間)、高速鉄道(片道、乗車時間:1時間強)で、西安から漢中へ短時間で行けることになりました。チャーター車はxiaojunn@gmail.comまでご連絡下さい。
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