興慶宮
興慶宮は今の城外、東南郊外にあり、唐代の興慶宮の一部です。昔の興慶宮は玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営されました。その後、皇帝や貴族たちがよくここで歓楽を尽くしました。特に玄宗皇帝が728年に興慶宮で正式の政務を執りはじめてから、ここは大明宮に代わる唐代の政治の中心地でした。また、玄宗皇帝は楊貴妃と共に、長い間ここで酒と歌舞に明け暮れ、生活を欲しいままにしていました。745年~756年までのことでした。唐代の興慶宮の面積は135ヘクタールでしたが、今の面積は50ヘクタールに過ぎません。しかし、昔の需要な建物がこの範囲にあるため、現在地は昔の興慶宮の中心です。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがあります。勤政務本楼とは、玄宗皇帝が詔勅を公布したり、公式の宴会を行ったり、外国の賓客と会見したりするところです。花萼相輝楼とは、玄宗皇帝が毎年の旧暦8月15日に中秋節の際に自分の兄弟をそこに招いて、一緒に月見を楽しみ、深夜にはひとつの大きな枕とベッドで兄弟が一緒に寝たと伝えられる建物です。それは兄弟の間で互いに助け合う気持ちを高めるためでしたが、実は同床異夢で、血で血を洗う骨肉の争いが当時の常でした。 沈香亭とは、楊貴妃が牡丹を観賞するために建てられたものです。唐代、沈香亭の回りには牡丹が沢山植えられ、毎年春になると綺麗な牡丹が鮮やかに競い合って咲いていたそうです。史書によると、牡丹の花は百種類以上あって、一日に何回も色が変わったといいます。その季節になると、玄宗皇帝と楊貴妃は沈香亭で酒を飲み、歌を歌い、花盛りの牡丹を観賞しました。輿に乗って、李白を呼び、詩を作らせたこともありました。 今日、よく詠われている「清平調」という詩はその時に作られた物です。「名花傾国両つながら相喜ぶ、常に君王の笑いを帯びて見るを得たり、春風無限の恨みを解釈し、沈香亭の北欄干に倚る。」名花である牡丹と傾国の美女楊貴妃は共に玄宗皇帝の喜ぶもの、皇帝はいつも笑いを含んで見ていました。李白はこの詩で牡丹と楊貴妃を交互に書き、花即ち人、人即ち花、牡丹の美しさと楊貴妃の艶やかさを重ねて詠んでいました。この建物の材料には沈香木が多く用いられていたため、沈香亭と名付けられました。湖は面積38ヘクタールで、竜池と呼ばれています。湖水は樹木の陰を映して非常に美しい。玄宗は楊貴妃と船に乗り、風景を観賞し、楽しい生活を送ったことは広く伝えられています。長慶軒とは、かつて玄宗皇帝の音楽室でしたが、今は休憩室として使われています。興慶宮は今日、西安最大の講演となり風景秀麗で、昔日の宮殿の雰囲気を演出しています。 目次へ
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