西安金橋国際旅行会社と陝西友聯国際旅行会社

中国内陸、西部、歴史を語る遺蹟情報満載!

  西安金橋国際旅行会社<中国金橋国際旅行会社西安支社>(国家旅遊局授権国際旅行業務資格登録番号:L-SNX-GJ00011)
  陝西友聯国際旅行会社<陝西友聯国際旅行会社西安本社>(国家旅遊局授権国際旅行業務資格登録番号:L-SNX-CJ00013)
  「安心と信頼の金橋と友聯」は兄弟会社です、相次ぐ1984年と2002年に設立された中国第一類旅行会社です。中国全国に支社があり、英語、日本語、フランス語等、多くの優秀なガイド、通訳もおります。「お客様第一」、「サービス第一」が会社のモットーです。
  世界中を深く案内してくれることでも有名な「地球の歩き方」にも掲載させていただきました。2014-2015年版、2016-2017年版、2018-2019年版、2020-2021年版「地球の歩き方 西安敦煌 ウルムチ シルクロードと中国西北部」の旅行会社のご案内欄にも掲載をさせて頂きました。
  西安金橋国際旅行会社と陝西友聯国際旅行会社は西安を中心に、陝西省(西安、宝鶏、延安、楡林等)、内モンゴル(フフホト等)、山西省(運城、太原、大同等)、河南省(洛陽等)、アモイ、海南島、黄山、張家界、雲南省(昆明、大理、麗江、シャングリラ)、貴州、桂林、チベット自治区(ラサ等)、青海(西寧等)、四川省(広元、成都、九寨溝、重慶等)、甘粛省(蘭州、武威、張掖、嘉峪関、敦煌等)、新疆ウイグル(ハミ、トルファン、ウルムチ、カシュガル等)、寧夏自治区(銀川等)等の歴史を語る遺跡、シルクロード遺蹟、三国志遺跡、仏教石窟寺院遺跡、唐代詩人の足跡等を辿る格安観光旅行サービスを提供しております。
  豊富な経験と実績を誇る西安金橋国際旅行会社と陝西友聯国際旅行会社は格安旅行を安全かつ円滑に実施するよう努めております。
  中国内陸の旅は安心・安全・信頼・格安の西安金橋国際旅行会社と陝西友聯国際旅行会社にお任せ下さい。
  詳しくは下記担当までお気軽にお問い合わせください。
  西安のゲイさん、携帯:+86(中国の国番号) 13772192936(24時間対応);WeChat ID:13772192936;Eメール:xiaojunn@gmail.com
  日本人の中国全土への個人旅行を全力で応援いたします。

兆倫村遺跡、鐘官城遺跡、前漢の貨幣工場

兆倫村遺跡、鐘官城遺跡、前漢の貨幣工場 前漢の造幣の中心と見られる陝西兆倫銭鋳造遺跡、西安文物保護修復センターの専門家は最近考古学調査によって、先般陝西省(省は日本の県にあたる)戸県で発見された兆倫漢代銭鋳造遺跡は前漢(紀元前206~紀元24年)期においてもっとも重要な上林三官の銭鋳造の場所であることを確認した。つまり、漢の武帝の時代(紀元前140~前87年)の五銖銭の鋳造から王莽の時代(9~24年)の国の造幣所に至るまでの造幣であった。 兆倫銭鋳造遺跡は戸県と長安県が境を接する所にあり、総面積は約90万平方メートル。昨年末に西安文化財保護センターの専門家姜宝蓮氏、秦建明氏らが発掘をおこなったものを基礎として、さらに調査をすすめた結果、そこで発見された遺物は銭幣、建築部材などのほかに大量の前漢の五銖銭と王莽の時代の多種多様な銭の陶質鋳型であることが分かった。五銖銭、一刀平五千、貨布など13種もあり、その中の無傷のまま発見された陶質鋳型はいずれも五銖銭の裏模様の鋳型であり、ピカピカした裏模様の鋳型と銭の付いている裏鋳型の二種類が見つかっている。 姜氏は、漢の武帝は元鼎四年(紀元前113年)に再び鋳幣権を統一し、上林三官鋳幣制度を正式におし広めるようになったと見られている、と説明した。上林三官五銖銭幣の鋳造は中央機構が統一鋳幣を基礎として行使している官鋳の方法であり、五銖銭は前漢から唐初までずっと使われていた銭でその影響範囲は広かった。 上林三官は上林水衡都尉の管轄のもとに置かれていた。漢の武帝は鋳幣を統一管理し、その鋳幣の工場を皇室の御園である上林苑に設置した。ほかの場所で発見された前漢の銭鋳造遺跡と比べれば、陝西省戸県で発見されたこの遺跡だけはその規模と内容が漢帝国の膨大な経済を運営する上林三官鋳銭所としてふさわしいものである。 この考古学調査の発見から、陶質鋳型の母型のほうにある注ぎ道は突き出たものである、銭文は陽文の楷書であることが分かっている。これは直接銭の鋳造に使うものではなく、銅の鋳型の鋳造に使うものであることと物語っている。また漢代において銭の鋳造が刻銅の鋳型から鋳造の銅鋳型に移り変わり、これは鋳幣技術の改革と進歩を物語るものである。写真 車をチャーターして近くのほかの遺跡なども行けるからチャーター車はxiaojunn@gmail.comまでご連絡下さい。
<2006.2.8>前漢時代の庭園遺跡「上林苑」遺跡へ昨年お客さんと一緒に行ってきました、今見られる「上林苑」遺跡、「昆明池」遺跡は畑になっています。畑に石鯨があるところは池の真ん中であるそうです、東南方向にある突き固めた土(南北の広さが45メートル、東西の長さが250メートル、高さが9メートル、地表離れる7メートル、縦横に入り混じっている水道の管がある…)は昔ここに一つの大型な宮殿があったことを証明しました。後その写真を添付します。東に織姫様を祭る社があるところは「昆明池」の東のほとり、西に牽牛様の石像がある所は池の西のほこりだそうです。現在はすべて博物館になっていないので、入場料が入りません。残念ながら見学の場合は、畑を横切なければならない(横切ってもいいです)、今見に行く場合は文物管理所などの許可が入りません、ただ車代とガイド料だけで、結構です。
戸県大王鎮兆倫村にある鐘官城 遺跡(前漢の貨幣工場といわれ)へまだ行ったことがありません、いろいろな資料を調べて、人を聞いても、今どうになっているか?分からない。やはり自ら見に行かなければならないです.
<2006.2.11>今日は兆倫村遺跡へ行って帰りました、今朝の8時半頃家を出って、近くの長距離バスに乗って10時頃「大王鎮」に着きました。それから輪タクに乗り換えて、15分間の後、兆倫村に入りました。大体何千人ぐらい住んでいる村だと思います、その周りは果てしなく広がいている麦畑、村より低くて、遠くから見ると村は一つ新しい砦見たいです。まだ旧暦正月で、村には行ったり来たりする人が多い。まず遺跡を発見した人(毛明玉さん)について村の人に尋ねて、毛さんはもう名人になりました、周りの人がほとんどしているそうです、正月でも遺跡を保護するお金を寄せ集めるためにあちこちへ行ってしまいました。残念……
後,前漢の貨幣工場ということを尋ねて、立っている所と周りの畑が全部遺跡であると答えてくれました。以前村より西何百メートル離れる畑の中、時々漢代の陶製造幣鋳型、レンガ、瓦、瓦当などを見つけたことがあります。
また50年代、村の中で用水路を造った時、沢山の陶製造幣鋳型を掘り出しました、その後土地をならした時に、また沢山の突き固めた建築用の台と完璧な方形れんが、半円筒形と平たい瓦などを発見しました。ある物の上には "上林"、 "千来万歳"、"永寿無彊"という篆書字がまだあります。
70年代、ここでは少なくない漢の時代の半両銭と王モン時期鋳造した"一刀平五十千"と"大泉五百"など貨幣を出土しました。当時村の年寄りは皆、ここが昔 お金を鋳造したところであるといいましたが、だれでもその以上詳しく話せなかった。
90年代中期、文物部門はこの遺跡に対して全面的な考古調査を行いました、最後は村及び周りの畑が探し当てなかった漢代の「鐘官城鋳銭遺跡」であるということを確認しました。
その遺跡は、東西600メートル、南北1500メートル、総面積100ヘクタール。大量な文物遺跡は地面に現れていて、その中は陶片、陶製のお金の鋳型、胴づき構造などがあります。そして考古研究で、「新河」両岸のスロープには約2のメートル厚い鋳型層があるし、銅、スラグ、灰と木炭階などを入り交じいることも証明されました。
最後なぜまだ大規模な発掘を行っていないと聞いて、お金の問題であると返事してくれました、ただ先祖代々ここに住んでいる人たちの家を他のところへ移すことも沢山のお金が要るからです。
兆倫村遺跡の報告はこの以上です、ご覧頂くことにありがとうございました。

<2006.2.13>その日は私が村の人に言われた所を見にいきたかったが、見に行っても、ただ麦畑になっている、石碑見たいの印なども何もないという話で、やめました、家に戻ってから、残念だと思いました…
<2006.2.14>今日は偶然に陝西省文物局のhpを見ました、そのページには兆倫村遺址が2001年6月25日全国重点文物保護単位になったということを載せています。それで碑何かが建っているはずでしょう?でも…兆倫村の人たちの話がまだ合点が行かない所があると思います。だから今週また見に行きます。
<2006.2.20>今日は友達同行,もう一回兆倫村遺址へ行って帰りました、前回と同じなように、長距離バスに一時間の後、「大王鎮」に着きました。輪タクに乗り換えて、遺跡まで送ってくれと頼んで、前回と違う凸凹な道を30分間走って、やっと遺跡まで運んでもらいました。遺跡で温室に働いている地元の年寄り1人に出会って、兆倫村遺址について尋ねて、いろいろ教えてもらいました、「新河」も見つけました、運が良かった!新河に沿って土手の上で兆倫村の方へ歩いて、写真23~45、50~55、57、67~68、74~81のような宝物に出会いました、今日、私達はついているんだ!これから写真について説明いたします。
写真1~2は温室の隣で取った貴重な写真(兆倫村遺址センター)、過去土壌を耕した時、トキドキ漢代の煉瓦、瓦などが見えましたそう。写真3は新河の土手、写真4は新河5は土手の上、6~9-1は兆倫村遺址遺跡センター、新河の西にあり、向こうの土台は兆倫村遺址センターの端であるそうです、黄色い矢印のところが土台、緑矢印のところが兆倫村遺跡です。
9-2~9-6はは兆倫村遺址センターと新河の写真、黄色い矢印のところが土台、緑矢印が前進方向を指示しています、青い矢印のところが兆倫村。9-2の中の緑矢印が西を指示しています。
9-7~9-12は兆倫村遺址センター(麦畑)と新河の写真、9-7と9-11の矢印が前進方向を指示しています。
9-13~11は兆倫村遺址センター(麦畑)と新河の写真、9-13は黄色い矢印のところが土台です。
12~17は同上
18~22同上、20は私の後ろが兆倫村遺址センターです
6~22、46~49、55~66は兆倫村遺址センターで取った写真、23~45、50~54は土手に沿って、この様なものがよく見えました;遺跡(麦畑)の中で、歩いた時、時々67~68の様なものが現れた。
その褐色の物は地元の年寄りの話で、範磚だそう、範磚に白い砂粒を入っている、赤い色を呈して、昔 その表面に細い泥を塗って、陶製の銭範になるそうです。本当かどうか?分からないです。でも25,26、33、35、36、39、40、50、68は確かに漢代の縄文瓦だと思います。50は遺跡(麦畑)で歩いた時、よく見えたものです。特に43はちょっと不思議だと思います。
46,47は立ている所から、指差した方向に向いて、遠い所まで遺跡のセンターだそうです
48は私達が南に向いています、49は昔の遺跡、今の麦畑、50は畑の中でよく見えた瓦の破片、51はここにも何かあるそうです。52は誰か掘った跡、緑丸を付けて選び出したものが瓦の破片です。
53,54には何かあるそうです。55、57は突き固めた土、昔の建築遺跡だと思います。56は 兆倫村へ向く。
58は来たところへ向く、59は来た路線、赤い矢印のところが褐色物が見つけられた所、60,61は緑矢印が土台に沿って前進方向を指示して、赤い矢印が遺跡の中心を指示しています。62は緑矢印が遺跡の中心を指示して、青い矢印のところにが一つ井戸があり、私のそばにあるものがその井戸用の配電箱。
64は兆倫村遺跡へ向く(南に向く)、66は緑矢印のところが一枚目と二枚目の写真を取ったところ、67はまたこの様なものに出会いました。
69~72は来た路線。72は緑矢印のところが一枚目と二枚目の写真を写した場所です。
79~81は昔ここで何かを立てたことがあるそうです、緑矢印が兆倫村を指示している。82~83は村内に入りました。
79~81は昔ここで何かを立てたことがあるそうです、緑矢印が兆倫村を指示している。82~83は村内に入りました、緑矢印の所に一つ井戸があり。
84~88は兆倫村を離れた写真。87は緑矢印のところが兆倫村、黄色い矢印のところが遺跡センター、88はちょうど反対。


分かり易いために、この簡単な見学した路線図を作りました。
青い矢印は行った方向を指示しています、緑は村を離れる路線、赤い丸は褐色物と瓦に出会った所、太い黒い線は土台表しています。
兆倫村遺跡の報告はここまで終わりました、ご覧頂き誠に有難う御座いました!